2026年2月28日の米・イスラエルによるイラン攻撃以降、ホルムズ海峡は「事実上の封鎖」から「IRGC管理下の選別的通航許可」体制へ移行した。しかし海峡を閉じたのはミサイルや機雷ではなく、ロンドンの保険会社による戦争リスク拡張条項の取消通知だった(第Ⅰ章)。開戦前に日量138隻だった通過量は日量13隻前後に激減し、3月1〜26日の商業船舶通過は95%減少した(Kpler)。中国はイラン産ゴーストフリート経由で日量約122万バレルの原油を維持しているが、非イラン産湾岸原油(日量約410万バレル)はほぼ喪失した(第Ⅱ章)。ASEAN各国はイランとの個別交渉で「友好国」認定を獲得しつつあるが、保険コストという「見えない封鎖」が実際の通過量を制約し、域内では燃料危機・需要抑制策が常態化している(第Ⅲ章)。
保険市場が撤退したのは「全ての船が攻撃される」からではない。
「特定の船が特定の通過で生存するかどうかを検証するコスト」が、
その通過から得られる保険料収入を超えたからだ。
ホルムズ海峡を実質的に閉鎖したのはIRGCの軍事行動ではなく、ロンドン・オスロ・ニューヨークの保険会社が発出した取消通知だった。IRGCが実際に商船を攻撃し始めたのは3月1日以降だが、保険会社の取消通知は開戦から48時間以内に出されている。
外航商船の保険は多層構造であり、すべてが揃わなければ商業的に航行不能となる。
P&I保険本体は取消し不能だが、その「戦争リスク拡張」部分は別枠であり、再保険会社がリスク引受を撤退すればP&Iクラブは拡張条項を取消す。3月5日以降、ペルシャ湾内の船舶が戦争起因で損害を受けても、P&Iの戦争拡張は適用されない。油濁や乗員死傷が発生した場合、船主は数億ドル規模の賠償を無保険で負う。
| 指標 | 開戦前 | 3月上旬 | 3月中旬〜 | 変動率 |
|---|---|---|---|---|
| 船体戦争保険料率(対船体価額) | 0.125〜0.25% | 1〜3% | 5〜10% | 最大80倍 |
| 1.2億ドルVLCCの1回通過あたり保険料 | $15万 | $120〜360万 | $600〜1,200万 | 最大80倍 |
| 原油1バレルあたり保険コスト上乗せ | ~$2 | $6〜18 | $30〜60 | |
| VLCC日額チャーター料 | $10〜15万 | $30〜54万 | $54〜77万 | 3〜5倍 |
攻撃が数年かけて漸増。保険市場は段階的に価格調整
P&Iクラブの一括取消はなし。保険料は上昇したが常に利用可能
再保険市場は分散的で連鎖崩壊のメカニズムが弱い
米海軍 Operation Earnest Will(護送船団)が1987年から稼働
約540隻が攻撃されたが航行は完全には停止せず
開戦から48時間で保険市場が崩壊。断崖的撤退
P&Iクラブ12社中大手が一斉に戦争拡張条項を取消し。前例なし
再保険市場はSolvency II規制下で集中化。一社の撤退が連鎖
米海軍は対イラン作戦と護送の資源競合で能力制約
通過量が24時間で80%減少。過去に類例のない速度
決定的だったのは紅海の消耗である。2023年末からのフーシ派による商船攻撃で、バブ・エル・マンデブ海峡の戦争保険料は0.05%→1.0%(20倍)に上昇、南部紅海のトランジット量は65%減少していた。船舶が喜望峰回りにルート変更したことで保険料収入は減少し、残存する通過船舶への支払いは増加し続けた。2026年2月時点で海上戦争保険の資本バッファは「近代海上保険史上最も薄い状態」にあり、ホルムズ危機は空洞化したシステムに衝突した。
イラン産原油を中国向けに運ぶゴーストフリートは、元々西側の保険体系の外側で運用されている。AIS切断、偽船籍、ペーパーカンパニーによる所有構造を持ち、ロイズの戦争保険やIG P&Iクラブの保険を使っていない。代わりにニュージーランドのMaritime Mutual Insurance Association(MMIA)等の非主流保険会社が「影の保険」を提供していた(2025年10月Reuters調査)。西側保険市場の崩壊はゴーストフリートの運航に直接的な影響を与えていない。
IRGCの許可コード(仲介者経由)を取得し、ロイズのシンジケートから個別に高額な戦争保険を買い付けて通過する船舶。LMAの調査では回答者の88%が引受意欲を維持しているとされるが、実際の見積もりは船体価額の5〜10%に達する。乗員が有する乗船拒否権(高リスク海域での割増賃金・拒否権は業界標準)も実運航のボトルネックとなる。
AISトランスポンダーを切り通過する「ダーク・トランジット」は、IMO規則(SOLAS条約V/19規則)違反であり、残存する保険カバーも無効化される。少なくとも1隻のギリシャ船籍タンカーがこの方法で海峡を脱出したことが報じられている。船体・積荷・乗員のすべてが一切の補償なしとなる極限的判断である。
トランプ政権は米国国際開発金融公社(DFC)を通じた200億ドルの再保険プログラムを発表した。しかし4月4日時点で詳細は未発表であり、約款・カバー範囲・引受プロセスは明らかにされていない。仮にプログラムが稼働しても、保険料の低減は「船を動かすためのコスト」を下げるだけで、「船を動かすためのリスク」は変わらない。トランプ大統領自身が「イランの機雷敷設船を破壊しても、船主が通過する意思がなければ通常運航は再開しない」と認めている。
中国は世界最大の原油輸入国であり、日量約1,100万バレルを消費する。そのうちホルムズ海峡を経由する原油は日量約535万バレルで、中国の原油総供給量の約3分の1を占めていた。ただし、Nomura の分析によれば、ホルムズ経由の石油輸入は中国の一次エネルギー消費全体の6.6%にすぎず、天然ガスを加えても7.2%にとどまる。
ホルムズ海峡が「事実上閉鎖」された中でも、イラン産原油の中国向け輸出は継続している。第Ⅰ章で述べた保険崩壊はゴーストフリートに影響しない ― 彼らは元々西側保険体系の外側で運航しているためである。
| 指標 | 数値 | 出典 |
|---|---|---|
| 開戦後にホルムズ通過した中国向け原油 | ≥1,170万バレル(3/11時点) | TankerTrackers |
| イラン産原油の戦後出荷ペース | ~122万 bpd | CNBC / Kpler |
| 戦前のイラン→中国出荷ペース(2月) | 216万 bpd | Kpler |
| 戦後減少率(イラン産のみ) | 約44%減 | 計算値 |
| UANI確認のイラン原油積載回数 | ≥27回(3/31時点) | UANI |
| 推定収益 | 30億ドル超 | UANI |
| ペルシャ湾を出たゴーストフリートタンカー | ≥26隻(4/2時点) | UANI |
| マレーシア沖EOPL で確認されたタンカー累計 | 85隻(4/2時点) | UANI 衛星画像 |
中国のホルムズ依存の本質的問題は、イラン以外の湾岸産油国(サウジ、イラク、UAE、クウェート等)からの日量340万バレル超が遮断されたことにある。浙江石化(ZPC)はサウジアラムコとの長期契約で原油の約60%をアラビア産に依存しており、CDUの定期修繕を前倒しで実施。Sinopec系福建製油所も3月初旬から処理量削減に入った。
| 対応策 | 内容 | 規模・時期 |
|---|---|---|
| ロシア産海上原油の増量 | 日量120万→180万bpdに拡大 | 3月以降 |
| 米国産原油の購入再開 | 日量約60万バレルの積載を4月に予定 | 4月 |
| 燃料輸出禁止 | ガソリン・ディーゼル・ジェット燃料の輸出停止。4月も継続 | 3/11〜継続中 |
| 燃料輸出の例外措置 | バングラデシュ・ミャンマー・スリランカ等向けに月15〜30万トン限定 | 4月 |
| LNG再輸出 | 3月に8〜10カーゴを韓国・タイ・日本等に転売(記録的水準) | 3月 |
| NDRCからティーポットへの指示 | 過去2年の平均稼働率を下回らないよう指令 | 4月第1週 |
| ティーポットの在庫 | 山東省2億600万バレル(10週間分)。4月末まで維持可能の見通し | 3/8時点 |
| 戦略備蓄 | 約13億バレル(約4カ月分)。SPR放出には国家承認が必要 | Vortexa |
| 供給源 | 戦前(万bpd) | 戦後(万bpd) | 増減 |
|---|---|---|---|
| ホルムズ経由:イラン産 | 160〜216 | ~122 | ▲44% |
| ホルムズ経由:非イラン産湾岸 | ~340 | ~0 | ▲100% |
| ロシア(海上) | ~120 | ~180 | +60 |
| 米国産(海上) | ~0 | ~60(4月予定) | +60 |
| 国内生産+パイプライン | ~510 | ~510 | ±0 |
| 推定純喪失量 | ▲~290万bpd |
日量約290万バレルの純喪失は中国の原油輸入量の約26%に相当する。備蓄(13億バレル÷290万bpd=約450日分の喪失補填)と需要抑制で短期的には吸収可能だが、備蓄アクセスには政府承認が必要であり、精油所ごとの在庫偏在が実際の耐久力を制約する。
| 国 | 原油輸入の湾岸依存率 | 石油備蓄(日数) | ネットポジション |
|---|---|---|---|
| フィリピン | 95% | 50〜60日 | ほぼ100%輸入依存 |
| ベトナム | 88% | 30〜45日 | 輸入依存 |
| マレーシア | 69% | — | 唯一のネット輸出国 |
| タイ | 59% | 65日 | 輸入依存 / 肥料依存も深刻 |
| シンガポール | 52% | 20〜50日 | 精製ハブ / ジェット燃料拠点 |
| インドネシア | 20% | 21〜23日 | 国内生産あり / 財政的に脆弱 |
| カンボジア / ラオス | 高 | 極少 | タイ・中国経由の再輸入に依存 |
| 国 | 交渉時期 | 合意内容 | 実際の通過実績 |
|---|---|---|---|
| トルコ | 3/5, 3/13 | ムスリム国・友好国として通過許可 | LPGタンカー等が通過 |
| パキスタン | 3/16 | 20隻分の通過許可 | 1隻通過。便宜船籍の打診あり |
| インド | 3/13〜24 | 5隻のLPGキャリアがOp. Sankalp海軍護衛下で退避 | サウジ産100万バレル積載タンカーも通過 |
| マレーシア | 3/26-27 | アンワル首相がペゼシュキアン大統領と直接交渉 | PETRONAS関連タンカーの通過報道あり |
| タイ | 3/23, 3/28 | アヌティン首相が通過合意を公表 | Bangchak社タンカー1隻が通過(2週間滞留後) |
| インドネシア | 4月初旬 | 外務省がイランとの交渉経路を確立 | Pertamina 2隻がサウジ産原油を積んで通過 |
| フィリピン | 4/1-2 | アラグチ外相が安全通過を保証 | 実通過はこれから(4/4時点) |
| バングラデシュ | 3月下旬 | 「友好国」リストに追加 | 詳細未公表 |
4月初旬の新展開として、フランスCMA CGMのコンテナ船「Kribi」が西側船舶として開戦後初の通過(4/2)、オマーン管理下のVLCC 2隻とLNGタンカーがオマーン沿岸ルートで通過(4/2-3)。イランとオマーンは通航の「監視プロトコル」を共同策定中。
第Ⅰ章で述べた保険の構造的制約が、外交交渉と実際の通過量の間に桁違いのギャップを生んでいる。
| 国 | 戦前の湾岸産原油 日量推定(万bpd) | 通過実績(4/4時点) | 充足率 |
|---|---|---|---|
| タイ | ~60 | タンカー1〜2隻(数万bpd相当) | <10% |
| フィリピン | ~30 | ロシア産70万バレル到着。ホルムズ通過はこれから | <5% |
| インドネシア | ~10 | Pertamina 2隻通過 | ~20% |
| ベトナム | ~40 | イランとの合意報道なし。中国から10万バレル供給 | <3% |
| シンガポール | ~50 | 個別合意なし。製油所が処理量削減 | <5% |
ASEAN各国が「友好国」認定を得ても、以下の3障壁のうち外交交渉で対処できるのは①のみである。②③は第Ⅰ章で分析した保険メカニズムに由来する構造的問題であり、外交では解決できない。
① IRGCの攻撃リスク ― 「友好国」認定で低減可能。ただしIRGCの現場運用は不透明で、中国COSCO船が「敵対国港に寄港した」として追い返された例がある。通過料(一部で200万ドル、人民元・暗号通貨受付)の支払いも求められる場合がある。
② 禁止的な保険コスト ― 船体価額の5〜10%。1億ドルのVLCCで500〜1,000万ドル/回。ASEAN諸国の小規模タンカー運航会社には事実上不可能。タイのBangchakタンカーが通過合意から実際の通過まで2週間を要した理由の一つと考えられる。
③ 積地側の制約 ― サウジのラスタヌラ、UAEのフジャイラ等がIRGCの攻撃を受けており、40以上のエネルギー施設が損傷。サウジの東西パイプライン迂回出荷は日量300〜400万バレルが上限。
| 国 | 影響事例 |
|---|---|
| フィリピン | ガソリン価格1カ月で50%超上昇。公務員週4日勤務制。「国家エネルギー緊急事態」宣言(3/24)。ロシア産原油を初輸入 |
| タイ | ディーゼル価格上限設定。石油輸出禁止。Rayong Olefins がナフサ調達不能で操業停止 |
| ベトナム | 備蓄30〜45日。航空便キャンセル多発。ハノイの観光業に打撃 |
| ラオス | ガソリンスタンドの40%以上閉鎖。週3日登校制導入 |
| カンボジア | 燃料価格68%上昇。配給制導入 |
| シンガポール | 精製ハブとして原料不足が波及。Aster Chemicals がフォースマジュール宣言 |
| インドネシア | 備蓄21〜23日。Chandra Asri Pacific がフォースマジュール |
| ミャンマー | 偶数日・奇数日の交互走行規制導入 |
中国の燃料輸出禁止はASEANの燃料危機を深刻化させたが、同時に選択的な例外供給が地政学的ツールとして機能し始めている。フィリピンのディーゼル輸入の半分以上を中国が供給し、ベトナムにも10万バレルを送った。4月にはバングラデシュ・ミャンマー等向けに月15〜30万トンの限定輸出が検討されている。北京はこの危機を米国批判とアジアにおける影響力拡大の機会として位置づけている。
ホルムズ海峡は「完全封鎖」から「IRGC管理の許可制」へ移行しつつあるが、4月4日時点のBloombergの報道で通過量が「開戦後最高」に達したとはいえ、依然として戦前の日量138隻に対し桁違いに少ない水準である。
本レポートが示す核心的な構造は、ホルムズ海峡の封鎖が「二重封鎖」であるという事実である。軍事的封鎖(IRGCの攻撃・機雷敷設・脅迫)と商業的封鎖(保険の崩壊・乗員拒否・禁止的コスト)が同時に成立しており、どちらか一方が解消されただけでは航行は回復しない。ASEAN各国の個別交渉は軍事的封鎖を部分的に緩和するが、商業的封鎖には対処できない。
中国はゴーストフリートによるイラン産原油の継続輸入(日量約122万bpd)、13億バレルの備蓄、ロシア・米国からの代替調達拡大により、短期的には国家レベルでの破綻は回避できる。しかし非イラン産湾岸原油(日量約340万bpd)の喪失は数カ月以内にティーポット精油所の稼働率低下、大型精油所の定修前倒し、そして備蓄の不可逆的消耗として顕在化する。
ASEANにとって、個別交渉は「全く通過できない」から「散発的に通過が可能」への改善であり外交的には意味があるが、保険コスト・積地制約・IRGC運用の不透明性が通過量を制約し、戦前の供給水準の10%にも回復していない国が大半である。域内最脆弱国(ラオス・カンボジア・ミャンマー)は既にエネルギー危機が社会機能の縮小を引き起こしている。
構造的に見れば、保険が海峡を閉めたのであれば、保険が海峡を開ける条件の整備 ― 米国の200億ドル再保険プログラムの実効化、あるいは停戦による戦争リスク区域指定の解除 ― が、外交的な個別交渉と並んで海峡再開の鍵を握っている。4月6日の一時停戦期限後の展開が決定的に重要である。